ミューズは願いを叶えない


10月22日 某時間
某マンションベランダ

「この間言いましたよね、検事。」
 聞きたかった事を切り出そうとした時、牙琉響也はスルメが入った袋を開け、手を突っ込んだところだった。ぺらぺらしたさきいかを摘み上げたところで、視線が自分を向く。
「ん? 何をだい。」
 コンビニで買った安っぽい『おつまみ』が響也には似合わない。形良く整った唇の端から綺麗な指で持って引き伸ばされたイカに、王泥喜は眉を潜める。
「…だから、何をだい。おデコくん。」
 そんな事を思うと、手にした熱燗が更に不似合いに思えて来て、王泥喜の眉間の皺は深くなった。今夜の急激な冷え込みに備えて、紐を引くと暖かくなるワンカップを数個買い込んで来たのは良かったが、親父臭いラベルが指輪に彩られた響也の手に全く合致せずに、なんだか異次元に迷い込んだ気分になる。
「会話を振って於いて、黙り込むなんてどんな放置プレイだ、王泥喜法介!」
「…ほ、放置プレイって、ちょ大声出さないで下さいよ、検事。」
「だったら、何だよ。」
 顔面に突き付けられたイカの頭が情けない。「いえ、だからですね。俺が先生を助けたって、検事が言ったじゃないですか?」
「うん。その通りだよ。ありがとう、おデコくん。」
「いやいや待って下さい。俺は先生を告発した訳であって、決して助けた訳じゃなくて…。それに、先生に雇って貰って助けられたのは俺の方って言うか…。」
「兄貴は、『真実が大切』って君に言わなかったかい? 僕が『真実』って言葉を口にするけど、こいつもやっぱり兄貴の影響なんだ。」
「あの裁判の前にも、先生はそう言ってました。」
「真実は、揺るがない(現実)の事だ。僕はそう思っていたし、兄貴もそうだと信じてた。けど、変化していた兄貴にとっての『真実』が『自分に都合のいい事実』に置き換わっていた。検事でもあり弟でもあった僕が一番気付かなければいけない事だったのに、情けない事にこの有様だ。」
 クシャリと潰す前髪と、歪んだ笑み。
「おデコ君が止めてくれなければ、あの人は『自分だけの真実』の為これからの未来も犯罪を重ねていったはずだ。でも、最初に『真実』を口にした兄貴が望んだ事ではなかったと思う。」

 だからね。兄貴を止めてくれて、ありがとう。
 
 そう告げて、笑う響也の顔が、思いもかけず儚くて王泥喜は息を飲む。
ジャラジャラしてて自信たっぷりで余裕綽々で…でも、それは本当に『真実』だったんだろうか? 
 酷く頼りなくて、崩れそうでひょっとするとこれが『真実』だったのだろうか。
「…検事の言いたい事は何となくわかります…。」
 言葉とは違う思考が王泥喜の頭を埋めていく。だから、口から出た言葉をただ並べた。
「それなら、お礼は成歩堂さんに言うべきであって、やっぱり俺じゃ「嫌だ。」」
 え?
 シリアス展開かと思いきや、響也は頬を膨らませてむっと王泥喜を睨んでいた。
「成歩堂龍一になんかに誰が礼を言うもんか。何かというと僕を虐めるし、意地悪だし。年齢の差なんて、僕にどうしろって言うんだよ、あの人は。」
「基本どSですからね。」
「時々、おデコくんも似てるよ。意地悪でさ。」
 (だって、構いたくなるんです。)その台詞を王泥喜は慌てて飲み込んだ。
 改めて見た響也の表情は笑えるほどに、子供っぽい。声を出す訳にはいかず、王泥喜は口を掌でおさえつつ笑い始めると止まらない。響也が自分の言動に頬を染めていくのがわかる。
「おデコくんには、どうも恥ずかしいところを見られちゃうな。」
「…俺も、他の人に対してはもうちょっと大人でいられる気がします。」
 滑らかになっていく口は、やぱり検事にのせられているのと、酒のせいに違いない。
「本当の君って訳かい? それは嬉しいね、僕にもっと見せてよ」
「嫌ですよ、なんでそんな…。」
 照れくさくて、恥ずかしくて。やっぱり悪態をつきそうになった王泥喜は、ふいに聞こえてきた音に言葉を止めた。

 ひそひそひそ…

 男達が小声で会話を交わしているような、ざわついた音。聞こえた途端、王泥喜はぞわりと背中が震えた。
 ゴクリと唾を飲み込み響也を振り向けば、緊張に強張った彼の顔が目に入り、途端に腕輪がギュッと締まった。
「聞こえ、ますか?」
 この間の轍を踏まない様に、響也の右肩に腕を置き呼び掛ける。何故か締め付けを強くした腕輪に疑問を感じつつ、彼の様子を伺った。
 響也は、王泥喜の手に自分の掌を重ねて、ゆっくりと瞼を落とす。視覚ではなく聴覚からの情報に集中しようとしたのは、王泥喜も理解はしていた。
何の為にこの寒空の中、何日も張っていたと思うのだ。この案件を解決し、成功報酬をこの手につかみ取る為に違いない。貧困に傾いた己の生活を少しでも向上させる為に、これ以上重要なものはないはずだ。
 けれど、王泥喜の視界を占領したのは、昼寝を妨げた綺麗な横顔だった。無防備に瞼を閉じた顔は、集中しているせいか僅かに眉間に皺を寄せていた。目尻はアルコールの余韻か色づき、滑らかな肌は月明かりに浮かびあがる。
 軽く噛んだ唇を緊張にか何度も噛み直して、王泥喜の視線を誘った。

 …やばい…。

 ゴクリと、喉が鳴った。

 どう言い繕っても綺麗なのだ。そして、酷く可愛いと思える。
 王泥喜は自分でも割と面食いなところがある事は自覚してた。勿論男なら誰でも(女でもか)そういう部分はあるだろうし、悪い事だなんて思ったことはない。
 けれど、今、心底その嗜好を後悔した。
 目の前の男に見惚れていた。触れてみたいと、欲求が沸き上がる。それを容認しているように、肩に置いた手がギュッと握られれば、宙ぶらりんの右手が、響也の頬に触れたいと願っていた。
 ぎこちない動作で、腕を上げるのだが、目を閉じている響也は気付かない。それが、王泥喜の動きを助長させる。

駄目だ、駄目だ、駄目だ。どんなに綺麗でもコイツは男だ。いっそ好みでも、コイツは男なんだ!!!!!

 ガンガンと響く声が、遠くから聞こえる。わかってる。そんな条件など、最初からわかっていた。でも、今、俺は…コイツを。

「…この音、ひょっとして…どうしたの?、おデコくん。」

 ガンガンと汗を垂らした王泥喜の顔がすぐ側にあっても、響也は取り乱さなかった。暫くの間、王泥喜の返答を待ってはいたが、自己嫌悪にさいなまれている王泥喜が返事をしてこないので、口を開く。
 無意識なのだろうが、肩に置かれた王泥喜の手を離さない事が、いっそうに彼を混乱させていた。
「ねぇ、おデコくん。この音、君も良く聞いてごらんよ。」
 低く囁かれる声は悪戯に王泥喜の混乱を招いたが、響也は法廷で対峙するように王泥喜を諭した。その様子に、王泥喜もハッと意識を戻す。
「音…ですか?」
「うん、良く知っている気がするんだ。」
 言われて耳を澄ます。一定の時間を抑揚を繰り返す声は、闇の中では気持ちのいいものではないが、そんな風に会話をすることはないだろう。くぐもっているけれど、聞いた事があると思ったではないかと、王泥喜は様々な記憶を反芻する。
 そうして思い当たる器具の名を口にした。

「…これ、エアコンの室外機…!?」

 声を張りそうになって、王泥喜は自らの口を両手で塞いだ。普通は唯のモーター音なのだろうけれど、故障か何かで音がしているのかもしれない。整備士ではない王泥喜にはよくはわからないが、無人になってから部屋のクリーニングはしても電器製品まではチェックしていなかったのではないだろうか。
「けど、隣から聞こえてくるなんて可笑しい話じゃないか?」
 響也の疑問に、コクリと頷く。
「長期出張で、無人。刑事くんの報告ではそうだったはずだ。
 それにホームレスの類が入り込んで宿を借りているというのも、セキュリティが厳しい此処では考えにくい。それに、誰かが出入りしているなんて話も聞いてないよ。」
「…。」
「音の正体がわかったのは女神の祝福だったかもしれないけど、どうする、おデコくん?」
 流石に捜査令状は出ないから踏み込んだりは出来ないよ?そう呟いた響也の科白は聞き流して、王泥喜は問う。
「女神の祝福ってなんですか?ラミロアさんの事ですか?」
 違う違うと、響也は手を振る。
「夜の神は、どんな神話でも女神だよ。この間、おデコくんが星に願いを掛けてくれたから、音の正体がわかったのかと思ったけど、これじゃ…「わかったかもしれません。」」
 王泥喜は、響也の顔を見据えてコクリと頷いた。


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